【大分国際車いすマラソン】ってどんな大会??

年に一度、世界のトップパラアスリートが大分に集結する。

車いすマラソンは、東京マラソンのように市民マラソンに併設されているのが一般的である。

しかし、大分国際車いすマラソンは車いす選手単独で開催される。国内はもとより世界中を見渡しても、そのような大会は稀有である。

ここでは大分国際車いすマラソンが開催されるようになった経緯と、この大会が果たしてきた社会的役割を述べていく。

大分国際車いすマラソン、開催までの経緯

始まりは「健常者と共に走りたい」という純粋な願いからであった。

1970年代別府大分毎日マラソン開催日にあわせて、大分の国道を歩くイベント「別大国道を歩こう会」が開催されていた。
回を重ねるうちに毎年参加していた車いすユーザーから「本物のマラソンに参加したい。」という声が上がるようになった。

その声を受けて1977年 、「別府市ロードレース大会」に車いす部門(2.7km)が設けられた。
車いす部門は翌年の1978年にも開催されたが、「マラソンを走りたい。」と願う車いすユーザーの願いからは遠くかけ離れていた。
ゆえに、開催されたのは2年間のみであった。

しかし、車いすユーザーの「マラソンを走りたい。」という気持ちはますます高まっていった。
その気持ちに応えたのは医師の中村裕氏だった。

中村裕氏がもたらした影響

別府市にある社会福祉法人「太陽の家」を設立し、身障者の自立支援に生涯をささげた医師である。
太陽の家が運営する福祉工場においても、勤務する社員達の間で「別府大分毎日マラソンを健常者と共に走りたい。」という願望は常にあった。

その声がますます大きくなり、理事長の職にあった中村裕医師が関係機関に参加許可を求めるに至ったのが経緯である。
しかし、当時の日本の陸上競技のルールでは車いすでの参加は認められていなかった。

その当時は現在のように身障者への理解は進んでおらず、公道において車いす選手がレースをおこなう事自体ハードルは高かった。
契機は1981年の国際障害者年だった。
大分県においても記念行事を検討する中で、車いすマラソンの開催案が浮上した。
中村医師が当時の平松守彦大分県知事に車いすマラソンの開催を提案したのだ。

このような経緯で、車いす選手単独のマラソン大会を開催することになった。

大会の開催には選手の健康面が問題

障害のある車いすの人間が「実際にフルマラソン42,195キロを走りきれるのか?」という疑問である。
当時は車いすマラソンに関する医学的データ等が存在しなかった。

開催するにあたり、選手の安全面を保証する医学的エビデンスがなかったのだ
それゆえに、まずは試験的に21.0975kmのハーフマラソンから開催することとなった。

1981年に109人、1982年に103人が完走した。

2年連続で開催し、選手の健康面にマラソンが悪影響を及ぼさないことも検証できた。
また、選手の間から「フルマラソンを開催して欲しい」という声もあがり、、1983年ついに念願のフルマラソンを開催。

紆余曲折を経て車いすユーザーの願いがかなった瞬間であった。
余談ではあるが、開催に尽力された中村医師はフルマラソンを見届けた後の1984年に他界されている。

大会を通じて健常者と車いすユーザーの共生に貢献

今年で41回目の開催となる大分国際車いすマラソン。
最初は「健常者とマラソンを走りたい。」という純粋な気持ちから始まった大会が社会に与えた影響は思いのほか大きい。

余談だが、何度も自分も大分には足を運んだ。
前述した中村医師が設立した太陽の家にも数多く足を運んだ。
太陽の家は別府市の亀川という地域にある。

日豊線の亀川駅を下車して徒歩100mほどのところにある。
初めて訪れた際に驚いたのは車いすの人間の多さである。
駅から施設への道すがら、何人もの車いすの人と遭遇した。

地域に身障者が溶け込んでいて、他の地域に比べて健常者も車いすの人に対して自然体であることを感じた。
普段から身障者と接しているから健常者と身障者の共生が当たり前になっているのだ。
「共生社会、ノーマライゼーション」と簡単に言うが、交わる場所がなければ始まることもない。

日本にはそのような場所がまだ少ないというのが現状だ。
ゆえに、大分国際車いすマラソンのような存在は貴重なのだ。
車いすマラソン大会が共生社会の一翼を担ってきたのは間違いない。
これは評価するべきところである。

毎年開催するにあたり、2000人超のボランティアスタッフが運営を支えている。
また、多くの車いすの選手を受け入れるのだ。

宿泊施設などのインフラ整備はもちろんの事、住民や企業の受け入れる側の心構えも重要である。
しかし、満足のゆく受け入れを初めからおこなえていたわけではなかろう。

1981年からの40年間、運営管理者はもとより多くのボランティアスタッフ、地域、住民などの努力が今の素晴らしい大会運営を可能にし、ひいては共生社会を実現したのだ。

まとめ

今回の記事の執筆で、改めてスポーツのすばらしさを実感させられた。
失礼な物言いであるが、たかが一つの大会が「質の高い共生社会」を生む一助となるのだ。
障がい者スポーツの発展が「いかに重要か!」を再認識させられた。

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