義足で世界記録達成!!走り幅跳びのマルクス・レーム選手を紹介

走り幅跳びにおいて「義足はずるい」という声をしばしば耳にする。

片足を失っているにも関わらずなぜそのような声が挙がるのか。

世界記録を出したマルクス・レーム選手にフォーカスして解説していこうと思う。

世界記録達成 義足のマルクス・レーム選手

議論の発端はマルクス・レーム選手が2021年に8,62mという世界記録を出した事にある。

だが冷静に考えてマルクス・レーム選手は少しもずるくない。
そもそも片足を失っているのだ。
生物学的に言うと、義足は自身の感覚の範囲外である。

人間は体を動かすとき、 脳からの指令が中枢神経を通して末端の手足の神経へと送られる。

義足の場合、電気信号は義足までは届かない。

当然、義足が地面をとらえている感覚はなく、 助走時の全力疾走も感覚のない世界でおこなわれている。。
我々の足が普通に感じていることを感じられないのだ。

それならば「ずるい。」と言われるのはなぜか?

走り幅跳び 義足の優位性と不利な点

ドイツケルン大学の研究で、健常者は踏切時に大きなブレーキがかかる事がわかっている。
それに対し、義足のジャンパーは「義足のブレードがブレーキを軽減させる」というのだ。

更に、たわませたブレードが 元に戻ろうとする時に空中で加速が生まれる。
それが「ずるい。」といわれてしまう理由だ。

だが不利な点もある。

地面に義足を踏み込むとき、思いのほか力がいる。
素材の品質向上があっても金属は金属なのだ。

メリットばかりが話題になっているが、デメリットもあるのだ。
踏切時に健常者より有利でも、助走するときは不利になるのだ。

加えて感覚は常にない。
以前、元マラソン選手の増田明美さんが自身の出演するラジオ番組で、パラアスリートの山本篤選手を迎えた時があった。

番組のインタビューで「感覚がないから、走るとき、いまだにこけることがある。」という趣旨の発言をされていた。

体の一部がなくなることは想像以上にストレスがあるのだろう。

「ずるい。」というのはある優位性の部分にフォーカスしたときだけであろう。

総体的に障害者が不利であるのは間違いない。

見方によれば、種族間のほうが「ずるい。」と言えるかもしれない。

種族による優位性

日本人とジャマイカ人を例にしてみよう。

そもそも日本人とジャマイカ人では体の構造そのものが違う。

人間には「大腰筋」という筋肉が太ももから腰回りにかけてついている。
短距離を速く走るには、この大腰筋が重要な要素を占める。

ウサインボルト選手をはじめとするジャマイカの選手たちはこの大腰筋が著しく発達している。

対する日本人は大腰筋がジャマイカ人より見劣りしているのだ。
種族的に短距離はジャマイカ人のほうが有利なのだ。

これは科学的エビデンスがあり、疑いようもない事実だ。

うがった見方をすれば、それも「ずるい。」といえるのではなかろうか。
しかし、ジャマイカ人はそのようなことをいわれても困るだろう。
生まれもったものなのだから。

それならば、義足の選手にも同じことが当てはまるはずだ。
好きでそのような境遇に身を置いたわけではない。

体を鍛え、義足に対応する肉体を作り上げただけなのだ。
さらに、スポーツにまで心血を注いだ。

彼らの崇高な精神が「ずるい?」
この発言はマルクス・レーム選手をはじめとしたパラアスリートへの冒涜である 。
SDGSが声高に叫ばれている昨今、これはその流れに逆行した考えであろう。

まとめ

この記事でマルクスレーム選手について触れてきた。

義足が「ずるい?ずるくない?」この問題は簡単に結論の出る事ではない。
むしろ、この問題はそのような短絡的なことではなく、スポーツそのもののあり方を問うているのではないか?

余談ではあるが、学生スポーツにおいて指導者の行き過ぎた指導が社会問題になっている。
残念なことではあるが、筆者の学生時代は「体罰指導は認められる範囲」という風潮があった。

まさに今、筆者の年代が学生スポーツにおいて指導的立場にある。
前述したような感覚で指導に当たっている人間が少なからずいる。
そのような人間は自分がされてきたからという理由で、それが正しいと錯覚しているのだろう。

時代錯誤も甚だしい。
スポーツって「何なんだろう?」「勝てばよいのか?」
もちろん順位をつけなければならない。

「勝たなくてもいい」などといったピント外れなことは言わない。
しかし、これまでは勝利至上主義が度を過ぎていた。

「スポーツ」ってもっと楽しいものであるし、楽しむべきである。
義足の問題にはそのような根本的な問題も潜んでいるように思えてならない。

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